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〜運動と健康の理論的な研究~

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阪神淡路大震災の中で生きた真実②(被災者が語り継ぐ体験記ブログ)

2019年01月17日
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前回の続き。

↓第1話はこちらから

阪神淡路大震災の中で生きた真実①(被災者が語り継ぐ体験記ブログ)

◎1995年1月17日の翌日から

 

翌日、また揺れで目が覚める。

震災当日もそうやったけど、震度1~4レベルの余震が断続的に続いていた。

震度3以上の余震は50回以上あったのだとか、、、

逆に震度7というあの揺れを体感したから、大したことないと言ってしまえばそうやけど慣れてしまっていたけど。

またいつあれが来るかと思ったら、身構えしてしまい恐くて仕方なかった。

 

朝、テレビをつけてもやっぱりつかない。

郵便受けに行っても、その日の朝刊も来ていなかった。

やっぱり何の情報もない、連絡も取れない。

この世界はどうなってしまったのか?

僕たちだけ、この町だけが取り残されたのか?

 

とにかく部屋を片付けて外に出ないと何も分からない。

シンクを片付けている親から、「金魚がぴくぴくしながら生きてる!」って聞いて見た。

ほんまのちょっとのシンクに溜まった水だまりで生き延びてた。

シンクの向かいの棚に置いてた水槽は粉々になっていたけど・・・

確か、次の水槽を買うまでタッパーかなんかに残った水入れておいた。

実はその金魚は、1年前の夏祭りで取った数匹いた金魚のうちの1匹。

他はすぐ死んでしまったけど、1匹だけ生き残ってた子で、震災後のこのシンクで生き延びてから、その後5年も生きて、親指大まででっかくなった。

生き物の生命力ってすごいな~って感じた。

 

◎神戸の街は戦後のような悲惨な状況

まだ残っていた食パンをみんなで分け合い、お昼過ぎに家族4人で外に出かけた。

周りの家や道路もぐちゃぐちゃにひび割れ、歩くところを探すのも苦労した。

200mくらい歩くと43号線の大きな国道に出た。そこの北側に青木市場と商店街があって、黒い煙と火がまだ残っていた。

※青木市場の焼け跡

ここは大火災があって、マンションの7階から見えてたところだった。

実はこの時に知ったんやけど、この大きな43号線のおかげで、うちの地域までこの大火災がまわって来なかったんだということを。

 

町に出て食料や水、電池、ガスボンベとかが欲しかったんやけど、みんな同じ気持ちで彷徨っていたが、何処の店も全壊全焼でモノを売るという状態ではなかった。

ふと辺りの10階以上のマンションを見ると、そのほとんどがなんかおかしい。

よく見ると、傾いていたり、2階がない。1階がない。

上からの全ての重みで耐えられずその階がぐっちゃってペッチャンコになってた。。。

考えたくなかったけど、その階の人は?上の人はどうやって外に出るん?

いたたまれない気持ちで、僕の心も押し潰されそうやった。

 

その日はまだ知らなかったけど、東へすぐ数百m行けば、あの写真にもよく残っている阪神高速が倒壊して横倒れになっているとこがあった。

あの地震の時、外から聞こえた物凄い大きな音は、マンションの下層階が押しつぶされた音と阪神高速が倒壊した音だったのかと後から考えて思った。

 

 

※緑部が倒壊箇所で、うちの地域は左下のフェリー乗り場の北側

町を歩きながら、通っていた中学校までとりあえず来た。

(しばらく休校です。再開の目処が立ち次第連絡します。)と書かれていた。

校舎は無残にもぼろぼろで、何とかギリギリ立っている状態やった。その校舎は僕らの卒業した数年後に新しく再建された。

 

結局、車も持っていないし、電車は全線止まっている。

その日は行くあてもなく、何も食料も物品も得ることなく家路に着いた。

 

◎伝えられた報道では伝わらない現場に僕たちはいた

街を歩いても、何があったんだろう?まだわからずじまいでいた。

このとき日本中、世界中の報道で神戸がえらい事になっていると伝えられていたのだろう。

災害は普段、外から見ると、映像や写真を通じて、空から被災地を見下ろす光景を見ることがほとんどだ。

でも、僕たちはその空の下、地面にいた。

 

空からは、見えるものと見えないものもある。

無事に立っていると思える家やマンションも、1階が潰れているかもしれない。

悲惨な現場を横からの目線で見ることは出来ない。

上から見たって、人が中で生きているのか死んでいるのかも分からない。

本当の被害は空から見ただけでは、そして後から被災地を訪れただけでは分からないのだ。

 

僕たちはその、ど真ん中にいて、地に足をつけ、その町を歩いた。

僕たちは何の情報もないが、その現実はずっと生目でこの足で歩いて見てきた。

 

 

そして、電気が復旧したのは、震災から1週間近くあとのことだった。そんな空からの映像を見たのは、地震から1週間も後のことだった。

 

さらに、ガスや水道は地下の配管がズタズタで復旧に1ヶ月近くかかった。

 

それから、どうやってこの生活を続けたのか・・・

↓第3話に続く。

 

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阪神淡路大震災の中で生きた真実③(被災者が語り継ぐ体験記ブログ)

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