阪神淡路大震災の中で生きた真実③(被災者が語り継ぐ体験記ブログ)
2019年01月18日第1話2話の続きです。
第1話はこちらから
阪神淡路大震災の中で生きた真実①(被災者が語り継ぐ体験記ブログ)
恐らく、いつも1.17当日は、いつ何を見てもそのことばかりで、特に関わってない人や意識ない人は、うっとおしいとさえ感じる人もいるかもしれない。
多分興味ない人には、たった1つのこの投稿も軽くスルーされる。
だからこそ、普段見る作られたメディアからの視点だけではなく、新鮮な当事者ゆえの生身のリアルな体験を感じて、読んでみて欲しい。
そうすれば、当日のうっとおしいとさえ思えた報道の連続も、少しは角度や気持ちが変わって知ってもらえると思います。
だから、僕は書く。書き続ける。
◎ライフラインが無い中の生活が始まる
「ライフライン」とよく言うが、電気、ガス、水道。
ライフライン全てが無くなることは、生きていく手段いくつかを失ったのと同様。
衣食住(着るもの、食べるもの、住む場所)が生きるために基本となるが、これらを繋ぐものがライフラインである。
ライフラインがあってこそ、次のステップの生活が出来るのだ。
服があっても洗濯もアイロンも出来ない。
食べ物があっても調理も保存も出来ない。
家があってもお風呂に入れない暖房器具がない。
ライフラインは全て失ったが、ただ、最悪俺ら家族と家は残っていた。
家族4人は全員無事だった。
住んでいたマンションは後に半壊診断され、改装修理されるが何とかその時は残っていて辛うじて住めた。
でも、六甲や西宮、塚口などの周辺にいる親戚とは長らく連絡が取れずにいた。
地震から数日後、父親はおばあちゃんとおばちゃんが住む西宮まで歩いて向かった。
その家は無残にも全壊だったらしい。
でも2人は無事だったらしい。
崩れた瓦礫の中から近所の人が助け出したみたいで、父は母と姉と再会できた。
震災から1週間後、ようやく電話が開通した時に親戚はみな無事で、僕らの家族の無事もようやく伝わったみたいだった。
逆から考えると、神戸の東灘に住む僕らの生存確認、安否の確認が出来ずに気が気でなかっただろう。。。
◎ライフラインが無い中でどう生きていったか
震災から1週間は何もライフラインが繋がらず、食料も水も切れてきた。
水はかなり貴重で、震災後すぐに、まずトイレの水がなくなって流せなくなった。
流せなくなったら、つまり溜まるのみだ。
当然、お風呂にも入れない。洗濯もできない。手すら洗えない。
お湯を沸かせないので、飲みものも冷蔵庫のがなくなると尽きてしまう。
備蓄なんて考えたことも無かったので当然してなかった。
本当に家があっても餓死するかと思って不安で仕方なかった。
ライフラインが無ければ死と直面しているのである。
それでも生きていくしかなかった。
自販機とか当然、外に出れば街にはあるんやけど、ぐちゃぐちゃか、まず電気が切れてるから買えない。
自販機が壊されて、中のモノを取り出された跡のも多かった。
5日目くらいだろうか、ようやく消防が来て近くの消火用下水道を住民に分ける場所が出来た。
バケツとかポリタンクとか持って、家族4人で1時間くらい並んでやっと水が手に入った。
合計50Lくらい貰って分けあって持ったけど、めっちゃ重い。家までが遠かった。。。
しかも、生水なので、これは飲めない。
トイレでちょろちょろ使うか、洗濯で少量使うか、体をタオルに濡らして拭くか、ほんまに節約してもすぐなくなる。
その何日か後に、自衛隊の配給がようやく近くの公園に来た。
当時の自衛隊は街になかなか入っていけないってのも重なったが、災害派遣の法整備が整ってなくて思うようにすぐ行動できないもどかしさがあったようだった。
※本庄中央公園の自衛隊施設
現地には自衛隊からの配給で、菓子パンとか缶詰とか水とか、あとガスボンベも。
最悪、家にはガスコンロはあって、ガスボンベを切らしていたので助かった。
ガスボンベとガスコンロ、水は最低でも災害時対策に大切だと思った。
これで水を沸かせる。調理が出来る。
なんという有り難いものを貰えたのかとその時はめっちゃ喜んだ。
でも、1、2日ですぐ切れた。 。。
そして、その自衛隊の設備には、温かい即席配給や水を沸かした簡易お風呂があった。
そこで、出来たてのトン汁を口にした。
一口飲む。
口に今まで感じたことのない温かさと、飲み込むと喉と胃に熱いほどの感触がじわっと伝わった。
身体が全身震え、涙が溢れた。。。
今でもその時の温かさと、感情を覚えている。
震災から1週間で、初めて温かいものを口にした瞬間やった。
「あ~、今、僕は生きてるんやな・・・」って染み渡った。
そして、自衛隊の簡易風呂に浸かった。
これも本当に温かい!全身に染みる。心底に染み渡る。
目をつぶって上を向いて、嫌なこと全て思い出しては、掻き消し、思い出してしまうけど、考えないようにした。
そこにいた同じような境遇のおっちゃんが話しかけてきて、軽くお話をした。
「小学生か?中学生!でも、こんな若いのに、これからやという時に大変やな~」と。
「オッチャンなんか生きても死んでも何ぼでもなる。でも、あんたらは諦めたらあかん!生きていかな。今、この現状で俺たちは生きていかなあかんねん!」って。
「ここで生きているからには、みんなで一緒に頑張ろうや!先は見えないけど、生きてたらなんとかなるって!」
おっちゃん達に囲まれて、たった13歳の子どもやったけど、震災から家族以外と初めて話して、心にその言葉が染みた。
生きていかな。この先。
↓第4話に続く。
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阪神淡路大震災の中で生きた真実④(被災者が語り継ぐ体験記ブログ)
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