阪神淡路大震災の中で生きた真実⑤最終話(被災者が語り継ぐ体験記ブログ)
2019年01月20日
◎震災のことは考えないようにし続けてきた
震災から2年が経ち、神戸市立の高校に入学した。
そこではもちろん、周りの同級生は震災を経験した人も多かった。でも、なぜかそのことは話題には一切ならなかった。
大学は滋賀の草津に決まり、近くに下宿するか家から通うか悩んだけど、
家庭の事情もわかっているし、ただでさえ私立の理系で下宿することは家賃や仕送りが大変だと思い、自ら神戸の自宅から通うことを告げた。
大学に行くと結構地方出身者が多く、神戸出身の人はほとんどいなかった。
最初に話をする時、どこ出身という話になる。
出身を聞かれて「神戸」と答えると、100%「震災は大変やったやろうね~?」
って言われても、まぁそれなりにねって答えることしかできないし、
聞かれることはうんざりだったし、神戸にいたことを、いることが嫌だった。
昔は、はっきり言って、震災のことなんて思いだしたくもない。
とずっとずっと思っていた。
震災には悪夢のような光景が鮮烈に頭と心の中に傷のように深く突き刺さっている。
ってか焼き付いて離れない。
今でも目をつぶっただけでその光景が頭をぐるぐる回る。
実際、ちょっとした地震が起きただけで、あの悪夢が頭を強烈に襲う
それくらい震災以降のことを鮮明に覚えている。
だけど震災の衝撃からか、それ以前の小学生や幼少期の記憶はほとんどない。。。
震災のあの出来事が衝撃過ぎて、それ以前は記憶喪失になっているのだ。
俺はずっとずっと何年も震災に対してはマイナスのイメージしかなかった。
だから、そのような悪夢を思い出したくないし、
なぜ何年もたった後でわざわざ思い出させるようなイベントや儀式や報道をやっているのかと疑問を感じていた。
ニュースも新聞もその前後はやたらやっているが、ずっと避けて通ってきた道だ。
そんな思いが震災から 10年ほど続いた。
◎キャンドルナイトで希望を持つ
でも、大学卒業して社会人になった1年目。
2006年冬、キャンドルナイトを神戸でやるというイベントと出会って考え方が180度変わった。
神戸で?火を灯す?何のために?年下とか学生ばっかやん?
自問自答した。自分の中でいろいろ整理した。
どこか俺は、震災からずっと心から逃げていたんだと。
向き合わなければいけない。
阪神淡路大震災の中で生きた真実を。
家族とともにたった1本のろうそくを灯していたあの夜。
周りに何もないからこそ、初めて家族を身近に感じ、大切に思えた時間。
それを照らしてくれたのは、気づかせてくれたのはろうそくの灯りだった。
必死にならんでくみに行って運んだ水。
初めて温かいものを飲んで感激したあの豚汁。
自衛隊のお風呂でおっちゃんが話してくれた「生きていこうや」って言葉。
知らない人でも、同じ境遇に立ったら、実は人って、めっちゃ温かいねんな。
こんな時にこそ、モノや情報ではなく、励ましてくれるのはいつも人だった。
なんでも絆、希望、温かさ、繋がりって言葉に表現してしまえば簡単だ。
でも、それはこういう経験があってこそ重みが出るもの。
俺ら神戸市民はこんな毎日をみんな励まし合いながら一生懸命生きようとした。
震災。忘れたいことなぁ、いっぱいある。
でも、そんなんまで一緒に忘れたらあかんやん。
そして、それから何のために神戸で火を灯すのか、その立ち上げた仲間たちと深く考えた。
人間の文明の原点である希望の火を灯して、この神戸にキャンドルナイトを根付かせる。
「1000万ドルの夜景を1000本のキャンドルの灯りに変えて、神戸にホウキ星が見える夜空を取り戻したい」

※2016年12月 神戸ハーバーランドモザイクで4000本ものキャンドルの火を灯した
「光で溢れる素敵な街だから、ルミナリエに負けない電飾の光ではなく、自然の灯りで神戸を灯したい」
ただ過去を振り返るためだけでなく、原点を見直して、
自然な笑顔であふれた明るい未来を想い、たくさんの人たちと一緒にゆっくりとした時間を過ごす。
便利なものやたくさんの情報があっても、それだけでは本当の幸せに感じられない。
人はもともとシンプルな生活をしていたはずで、
それでもそこには大切なものと充分な幸せがあったはずだ。
僕の場合はそれに気づけたのは、たった1つのろうそくの火であって、
なかなかそんなことを気づく機会も慌ただしいこの世の中でなかなかない。
だから、そのことに気づいてもらう1つのキッカケがキャンドルナイトなんだ。
キャンドルナイトを通じて、その体験から学んだ本当に大切なことを伝え続けることを決めた。
この気持ちはずっと忘れない。
そして、伝え続けていきたい。

※2018年10月神戸市立須磨離宮公園
今も12年間、神戸でキャンドルナイトを続けている
◎東日本大震災と家族が出来たこと
そして、その想いがさらに強くなったのは、2011年3月11日の東日本大震災。
他人事ではなかった。
逆に離れたところからテレビやニュースを見る毎日だった。
しかも、待ちに待った結婚式が2011年3月13日。
この東日本大震災のたった2日後に控えていた。
日本中が悲惨な状況の中、2人のための一生に1度の幸せな日を迎えていいのか?
でも、過去の経験や感情が生きた。
こんな時だからこそ逃げちゃいけない。
堂々と顔を上げて今まで生きてきた奇跡とそのお世話になった家族や友人に感謝と想いを伝えるために。
あれから20年、震災で受けた悲しみと教訓を両方持っているのは僕たちだけなのだ。
だからこそ、一生この震災と付き合っていかなければならないと思っている。
それから5年後、7年後二人の子どもも出来た。
子どもたちにも、この生きていくために大切な気持ちは、大人になるまでに伝えていかなければならない。
なぜ生きているのか?生きることの大切さをずっと考え続けることが生きる意味だと思うから。
当たり前が当たり前じゃないということ、そのことを忘れないでいたい。
毎年、この日を迎えて原点に戻ってまた新たなスタートがここから始まる。
過去には戻れないけど、これからの未来には僕たちは行ける。
その過去と未来を繋ぐのは今の僕たちだけなんだ。
1995年1月17日。
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